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2011/06/20

書評『原発になお地域の未来を託せるか―福島原発事故 利益誘導システムの破綻と地域再生への道』

 原発関連の書籍を読んだので、書評を書いておきます。

原発になお地域の未来を託せるか―福島原発事故 利益誘導システムの破綻と地域再生への道原発になお地域の未来を託せるか―福島原発事故 利益誘導システムの破綻と地域再生への道
(2011/06)
清水 修二

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 本書は、原発の立地する福島県に身を置いてきた著者が、地方財政の観点からいわゆる電源立地交付金制度を論じたもの。今回の原発を契機に出版したものですが、今回の事故について技術的に論じたものではなく、電源立地交付金制度の解説とそれへの意見がメインになっています。

 第1章は、今回の原子力災害を当事者として経験した著者が、原子力災害とは何なのか、避難や被害を巡る倫理問題などを生々しく論じており、被災地以外ではわからないことが多く書かれています。著者は、「原子力災害の最大の特徴は被災が「五感に訴えてこない」こと」であり、「放射能は「正しく怖がる」ことが大事」と冷静な記述から入っていますが、被災地の市民の気持ちとして、非常に直接的な感想もあります。これは、僕が福島の友人達とコンタクトをとった際の感覚と一致しており、被災者の心境として率直なものなのでしょう。

 最近、原発のコストパフォーマンス論を頻繁に見かけます。その際、コストは人命や経済的損失(の期待値)を中心に測られていますが、原発の場合には、原子力災害特有の、不安やストレスによるいわば精神的損失があり、それに触れているものは多くありません。それは正しい科学的な知識を得ることで消滅するもの、と論理的には説明できますが、現実的にはなかなか難しいと思います。今回の災害を契機に、今後は放射線による健康被害などについての国民的知識は飛躍的に増大すると思いますが、人々の不安感を払しょくするのは困難を極めると思われます。

 第2章から第3章では、原発のほか、廃棄物処理施設や軍事基地などを含む“NIMBY(Not In My BackYard)”の問題や、そのうち原発に係るNIMBYの特徴に触れ、その上で現在の電源三法に基づく交付金制度を解説しています。
 冒頭と末尾が一般の読者向けに書かれているように見えるのに対して、この交付金制度の解説は、丁寧に解説がなされており、なんとなく「原発所在地には『莫大な交付金』が交付されている」という認識だけ持っている人には、規模感や制度構造がわかるという点で、一読の価値があると思います。また、学者だけあって、いわゆるジャーナリストが書いたものと比べてよく整理されており、「役人が読みやすい」文章になっています(言いたいこと伝わるでしょうか?)。

 第4章では、こうした制度を背景とした電源立地交付金制度及び原発の立地(誘致)と地域との関係を論じており、技術者や法学者が論じるものとは異なる視座を提示してくれるという点で本書の核となる部分です。
 著者は、原発立地地域の側の問題点として、交付金は地域発展に寄与しないことを強調しています。原発立地地域の産業構造の推移に触れ、「電源立地効果の一過性問題」(発電所の建設が地域にもたらす経済効果は一時的なものであって、かつ建設ブームが去った後にもとに戻らないこと)を提示しています。原発は、地域の側からは「地域振興」の名目でしばしば誘致されますが、この判断は長期的には合理的ではない、ということです。そのうえ、地域は今回のような災害のリスクを認識していないことも問題視しています。これには、多分に国や電力会社のこれまで「決して事故は起こらない」と主張してきたことが寄与している、としています。
 また、交付金を通じ、いわば市場主義的な構造で電力供給を受けてきた都市側の問題点として、その対価である交付金の原資(電源開発促進税)は電気料金に付加されるために、都市部の住民はこうした「取引」に完全に無自覚である、ということを挙げています。
 著者は、本来国民的問題として議論されなければならないエネルギー問題、環境問題を、こうした不完全な市場主義的関係で解決しようとしている現行制度を「社会的・倫理的にゆがんでいる」と言い切っており、反原発ならぬ反電源三法を明確に主張しています。

 電源三法は、多分に政治的な理由で改変が進められ、非常に不透明で歪んだプロセスを歩んできたことは間違いありませんが、僕は、原発も含めた電源問題が、リスクの受容とその対価の供与という市場主義的なシステムを適用できないと言い切ってしまうのはまだ早いと考えています。経済学的な観点からは、この制度は

 ① 情報の非対称性
 ② 交付金の中毒性
 ③ 事故発生時の外部不経済

の点で、「契約」に際してフェアな意思決定を阻害している、と言えます。

 ①は、地元が被災リスクを正確に把握できていないということです。原発事故はその発生確率もよくわからないうえ、その被害がどの程度に上るのか、その規模感も含めてよくわからないところがあります。今回の事故による被害がどの程度になるかさえ、まだよくわかっていません。ここに、原発特有の問題があるわけです。
 政府や東電からすれば、「事故の可能性はゼロではありませんが…」とは言えないため(日本社会には、建前上ゼロリスクを求めるという悪い癖があることが原因ですが、その点はここでは省きます。)、「安全です」と言い切ってしまう。その政府や東電の説明を聞いた地域住民、議会及び首長は、被災リスクをほぼ完全に無視してきた節がある。少なくともさほどの抵抗なく受け入れてきた(もちろん反対してきた人は多くいますが、民主主義的プロセスを通しての地域の意思として受容してきた。)。
 経済学でいう典型的な「情報の非対称性」とは異なりますが、その一類型である市場の失敗として捉える事ができるでしょう。

 ②について、いまや一般財源とほぼ同等といえる性質をもつ電源立地交付金は、経常経費にも充てられるため、完全に税収と同化してしまいます。すると、地元財政の中に組み込まれ「もう後には退けない」状態になってしまいます(「電源立地効果の一過性問題」からも同じことが言えます)。そうすると、誘致を決めた以降、それをやめるという選択肢はとれなくなってしまうのです。今の原発が40年以上前にできたことを考えると、地域住民からすれば、親やそのまた親の選択が子孫代々の生活を(強制的なリスクの受容という意味で)制約されてしまいます。都会の人が思うほど簡単には地元の人は移住できないのです。

 ③について、電源立地交付金は、原発の立地する自治体と、その周辺自治体に交付されますが、今回避難区域にはいった飯舘村などは、その恩恵に預かっていません。野菜の出荷停止などを余儀なくされた北関東も同様ですが、これは完全にアンフェアです。仮に市場主義的な手段で電源立地の問題を解決するならば、全てのステークホルダーを巻き込んだものでなくてもいけませんが、今はそうなっていません。

 こうして整理すると、①の前段と②は原発の有する根源的な問題、①の後段(と②)は地方自治の問題、③は制度設計の問題、と言えると思います。こうした問題を一つ一つ解決していけば、現行制度の改善で解を得られるかもしれません。


 僕は、上記の問題うち地方自治の問題については、思うところがあります。

 先の整理から導きだせることは、「自治体に(所与の条件を適切に認識できるという意味で)正しい判断はできない」と結論付けるか、「自治体が正しい判断ができるように、正確な情報共有を進める」と結論付けるかのとちらかです。原発立地の問題は市場主義的な制度を適用しえない、と言ってしまうと、後者、ないしは地方自治そのものを否定することになりかねません。端的にいえば、「地元にこんなに大きな問題を判断する能力がないのだから、彼らに判断を任せているこんな制度は成り立たない」ということでしょう。しかしながら、確かに被災リスクが大きい問題ではありますが、その判断権さえ与えることができない、というのは地方自治のあるべき姿ではないと思いますし、従来のお上任せの政治に戻ってしまいます。

 では、このようなリスクの大きな問題を、地元で適切な判断ができるのか。僕はできると思うし、するべきだと思います。その観点からは、今回の事故について、地元(県知事や立地市町村長、その議会、さらには彼らを選んだ市民も)にも一定の責任があったと言わざるをえません。なぜなら、地元にも選択の余地は確実にあったからです。
 あまり指摘したくはありませんが、受け入れの対価である交付金が長きに渡って支払われていたのは事実です。これは明らかに被災リスクの受容への対価であって、「政府や東電が「安全だ」と言っていたから事故が起こると思っていなかった」というのはあまりにお粗末だと思います。それではいったいこれらの交付金は何だと思っていたのでしょうか?こんなに莫大な交付金を受け取っておきながら、被災の可能性を全く認識していなかったとしたら、認識が甘かったとしか言えません。この辺は高度に政治的な判断になると思うので、「地元の責任」は多分に知事や市町村長にあると言えるでしょうが、無視してはならない点だと思います。(※)

※ もちろん、これまで安全ばかりを叫んできた政府や東電に責任がないというつもりはなく、そちらの責任の方が限りなく大きいと思っています。それを前提として、地元が完全にinnocentではないのではないか、ということです。

 福島の被災者からは感情的に同意を得られるとは思いませんが、それでも、今後も地方分権を進めていくのであれば、今後も地域と都市部がこうした(市場主義的な)関係の中で、電源立地の問題を解決していく方法も一つの選択肢とすべきだと思っています。原発が危険であって、その危険性が正確に伝わっているのであれば、どこも原発の立地を許容せず、原発の稼働・建設はできなくなり、国策としては、他の手段を選ばざるを得なくなります。そうなれば、それはそれで結構なことだと思います。
 一方、原子力工学はまだ発展途上の段階にあり、50年後には、今では想像できないほど安定したものに変わっているかもしれません。少なくとも、今後一切原子力発電に頼らない、とトップダウンで決めてしまうのは時期尚早だと思います。前述のような、情報の非対称性や外部性といった現行制度の問題点を追及していくという道を閉ざしては、自ら可能性を手放してしまうことになります。


 本旨(書評)に戻ります。 
 今回の原子力災害の衝撃は本当に大きく、今後も激しい議論が展開されると思います。ただ、現在書店の書棚に並んでいる反原発の書籍には、多分に過激というか、客観性に疑問なしとできないものが少なからずあります。本書は、今後我々が、国民として、そして地域住民としてエネルギー問題を考える際に、必要となる知見を与えてくれると思います。
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2011/04/18

原子力災害の損害賠償について

 東日本を襲った大地震、大津波から1カ月が経ち、まだまだ大きな地震は続いているものの、故郷である福島が大変なことになった地震当初に比べると、精神的には少し落ち着いてきました。親族が皆無事だったのは不幸中の幸いです。
 しかしながら、福島市にいる家族は、原発の放射能が心配とのこと。得体の知れない放射能の危険にさらされるのは精神的に相当負担がかかることでしょう。

 Twitter上などでは、放射線に係る現状の生理学的なリスクなど、専門的な意見が交わされ、時に対立していますが、専門家ではない自分は、そのことについてとやかく言うことは避けます。

 最近気になるのは、今回の原子力災害に関する補償、損害賠償についてです。専門ではないですが、関係法令をざっと見たところ、キーとなる法令は原子力損害賠償法(以下「原賠法」)です。


○ 原子力損害の賠償に関する法律(昭和36法律第147号)(抄)

(無過失責任、責任の集中等)
第三条 原子炉の運転等の際、当該原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる。ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるときは、この限りでない。
2 (略)

(国の措置)
第十六条 政府は、原子力損害が生じた場合において、原子力事業者(外国原子力船に係る原子力事業者を除く。)が第三条の規定により損害を賠償する責めに任ずべき額が賠償措置額をこえ、かつ、この法律の目的を達成するため必要があると認めるときは、原子力事業者に対し、原子力事業者が損害を賠償するために必要な援助を行なうものとする。
2 (略)
第十七条  政府は、第三条第一項ただし書の場合又は第七条の二第二項の原子力損害で同項に規定する額をこえると認められるものが生じた場合においては、被災者の救助及び被害の拡大の防止のため必要な措置を講ずるようにするものとする。



これらの条文のエッセンスは、

・ 原子力事業者(東電)は、原発事故にかかる損害について、賠償責任(無過失責任)を負う。
・ ただし、異常に巨大な天災地変、社会的動乱が原因の場合は、賠償責任はない。
・ 原子力事業者(東電)が賠償責任を負う場合であって、かつ賠償額が東電の賠償能力を超える場合には、政府は必要な援助を行う。
・ 東電に賠償責任が生じない場合には、政府が被災者の救助と、被害の拡大防止のための必要な措置を講ずる。

の4点です。

 今回注目すべきは、「ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるときは、この限りでない。」としている第三条ただし書です。これは、原子力発電という、どんなに予防措置を講じても、大きなリスクが残る(※)原子力発電を民間事業者が担えるよう、「手の打ちようがない事態」については免責としている規定であると読めます。

※ 事故が起こったときの被害が莫大なため、大規模事故の発生確率が小さくても、リスクは大きくなる、といえるという趣旨ですが、この点について論ずるのは、別の機会に譲ります。

 今のところ政府は、今回の原発事故は、この第三条ただし書には該当しないとの見解を示しています。その結果、第三条本文が適用され、東電が賠償責任を負います。ただし、賠償額は1兆円を超えると見られ、おそらく東電の賠償能力を超えるのではないかと思います。その場合、第十六条が適用され、国による「必要な援助」が行われる、すなわち国による間接的な賠償が行われます。

 今回の震災において、この原賠法がどのように適用されるのかは、15日に初会合を開いた文科省の原子力損害賠償紛争審査会で議論されることと思いますが、現状の流れについては、非常に危ういものを感じます。


 原賠法の規定は、前述のとおり、民間事業者が原子力発電を担えるように免責規定を置いているものと考えられますが、今回の震災が「異常に巨大な天災地変」に当たるかといえば、答えは間違いなく「Yes」だと思います。逆に、今回が当たらないのであれば、立法当時、一体どのような災害を想定していたと言えるでしょうか。
 にもかかわらず、今回は、第三条ただし書が適用されない見通しとなっています。これは、第三条ただし書が適用された場合には、東電の賠償責任がなくなるうえ、第十七条による政府の「被災者の救助及び被害の拡大の防止のため必要な措置」では、農作物への被害や経済面での補償を読むのは難しいからだと思います。つまり、現行の規定を厳格に適用(第三条ただし書を適用)すれば、福島の農業や水産業、汚染された土壌に係る損害賠償責任を負う者はいなくなってしまうのです。

 結論から言えば、こういった福島の人々が受けた被害は、誰かが補償するというかたちをとらないと、福島県民はもとより、全国の多くの人が納得しないでしょう。たとえ国税で負担するとしても、反対する人はそう多くはないのではないかと思います。
 しかし、それ以上に、今起こっているのは「東電バッシング」であり、東電の社員に対する批判がよく目につきます。東電は今回の事件の「加害者」であり、「被害者」に損害賠償するのは当然だ、ということなのでしょう。反対する経済団体の声をメディアが暗に批判的に報道しているところを見ても、社会全体がそういう空気に包まれている気がしてなりません。そして東電としては、こうした空気の中、その流れに抗うことはできないでしょう。

 しかしながら、原賠法を見る限り、現行の法体系はそうはなっていません。東電に責任を負わせることはできないはずです。仮に国が補償するべきだ、という結論を得たとしても、現行法では無理なので、新法を作る必要があります。その場合にも、不利益変更の遡及適用は認められませんから、東電に賠償責任を負わせることはできません。
 そうした点を鑑みると、今回の、原賠法第三条ただし書に該当しない、という判断は、こうした法的背景のなか、東電に賠償責任を負わせるためにとられているものと思わざるを得ません。


 僕は、こうした流れに非常に危ういものを感じるのです。現行法は、正当な手続きを踏んで国会で成立したものであり、日本が法治国家である以上、法に反することは許されません(※)。それなのに、東電が賠償すべきだ、という「空気」によって、悪く言えば抵抗する術を持たない東電の足元を見るかたちで、違法な運用がなされることが、さも当然かのように扱われている今の事態は、非常に懸念すべきものであると思います。

※ 法の趣旨に合致する判断で、形式的に法に反することはあってしかるべきだと思いますが、今回は明らかに法の趣旨・立法意思に反しています。

 僕は、別に東電の味方をしているわけでも、福島の人に補償は必要ないと思っているわけでもありません。むしろ、国(全国の国民全体という意味で)として補償すべきであると思っています。ただ、それを行うには新法が必要であるし、東電に責任を負わせるのは、あまりに現在の法体系を無視していると思います。

 法律の弾力的運用は必要なことで、全く否定はしませんが、今回の賠償について判断を誤ると、ビジネス基盤としての法整備が欠如しているのと同じ状況になってしまいます。ここは、冷静になって、法治国家として厳正に対処すべきだと思います。
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2011/03/07

リーダーシップ

 1年半ぶりに日記再開。
 最近はツイッターばかりだけど、ツイッターだと文字数が限られててまとまったことが書けないので、こちらと併用することとします。

 最近、1年の任期を終えて霞が関から永田町に戻られたあの方の著書を読みました。

招かれざる大臣 政と官の新ルール (朝日新書)招かれざる大臣 政と官の新ルール (朝日新書)
(2011/02/10)
長妻 昭

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 霞が関での一般的な評判は、はっきり言って悪いし、僕自身もいい印象を持っているとはとても言えないのだけれど、これを機会に、それがなぜなのか考えてみました。いい印象を持っていないと公言してはいるものの、それはなんとなく空気に流されているだけなんじゃないか、客観的に回顧すれば、今と違う印象を得られるのではないか、という前向きな理由からです。

 この本は、僕も含めて職場でも数人読んでいて、その感想は概ね、「別に間違ったことは言ってないんだけどなぁ…」というもの。僕もそう思いました。そしてこの1年を振り返って、結果として「良かった」(国民にとって、役所(官僚)にとって、そして彼自身にとって)と思っている人は、少なくとも僕の周りにはいなかったです。

 大臣というのは、巨大な組織のトップであって、そこに求められるのはまずは一般的なリーダーシップ。行政の長としての特性や、個人としての個性はそれを前提に発揮されるべきものであって、個性だけでは成功はないと思います。
 問題の所在は、その一般的な意味でのリーダーシップにあったのではないかと思います。


1.目標の設定
 ここでは2つの問題を挙げますが、まず一つは目標の設定。
 書店のビジネス書コーナーで、リーダー論や管理職指南書のようなものを手に取ると、冒頭に出てくるのは必ずと言っていいほど「目標管理」です。まずは目標設定が、リーダーにとっての最大の肝となるべきところなのでしょう。
 厚生労働省は、誰もが知るとおり、国民が最も関心を持つ分野を所管する省庁であり、その抱える問題は、はたから見るよりも複雑な構造になっています。誰もが「改善すべき」と思っている分野も多くありますが、その多くは複数の利害関係者の調整の結果、ある程度均衡を見てしまっている状態であり、まさに一定の方向性を持って、快刀乱麻を断ちきるような政治的決断が必要とされる省庁だと思います。
 それだけに、職員としては、大臣が如何なる大局観を持っているのかに一番の興味を持っていたし、期待もしていたはずです。
 そこで大臣から示されたのが、「役所文化の改革」だったのです。
 役所に改善すべき点は山ほどあるし、おそらく改善しなくてよい状態になることはないでしょう。役所に限らず、大きな組織における弊害、官僚制の病理を除去していく作業は、不断の努力として実施されなければならないものです。
 党の中で、彼がそのような役割を担う軸だったのは理解できますが、しかし、それは厚生労働大臣としてやらなくてもよかったのではないかと思えるのです。数ある問題を解決するために、日々(前向きに)頭を抱えている職員の中には、皆がイメージでき、共感できるような目標が設定されず、「結局彼は何をしたかったのか」という想いを胸に、霞が関を去るその背中を見送ったものも多かったのではないかと思います。

 もちろん、著書の中でも書いてあるとおり、中長期的な目標は立てています。それが「長期高齢社会の「日本モデル」」であり、国会では、その考え方を以下のように説明しています。

 社会保障を充実させることで、格差が縮小し、安心感が生まれれば、消費や経済成長にもプラスの影響が生まれる。社会保障が機会の平等を後押しして、多くの人がチャレンジできる環境を整備すれば、広く国民全体の能力を生かすことができる。そんな福祉施策であるポジティブウエルフェアを拡充し、個人の有する能力や価値を最大限引き出して、経済成長の基盤づくりを支援する。
 経済成長と社会保障はトレードオフの関係ではなく、共存共栄の車の両輪としてとらえる政策を確立します。
 これまで社会保障はコストとしてとらえがちでしたが、未来への投資ととらえることが重要です。
 医療、介護については、今後、高齢者を中心に確実に需要の増大が見込まれ、大きな成長と雇用の創出が期待されます。今こそ、政府と市場の役割分担を見直しながら成長モデルを描くときです。
(2010年2月17日 衆議院厚生労働委員会大臣所信表明より)


 当然、ここからさらに具体化したイメージが示されるものと思っていましたが、それが何だったのか、あるいは示されたのか、よくわかりませんでした。示さなかったのか、あるいは示したけれど、それが国民を含めうまく発信できなかったのかはわかりませんが、言葉は悪いけれど、このぼんやりと、フワフワした言葉では何も伝わってこなかったのです。


2.職員とのコミュニケーション
 著書を読めば一目瞭然ですが、彼の官僚に対する敵意は相当のものです。過去の経緯はあるのでしょうが、その警戒心と、物事の捉え方は少し異常な域にあるのではないかと思います。

 一般に、リーダーの大きな役割として、組織員のモチベーションを維持・向上させるというものがあると言われます。
 先日テレビで、サッカー、リーガ・エスパニョーラのレアルマドリードの監督であり、誰もが現時点で世界最高の指揮官と認めるジョセ・モウリーニョの特集をやっていました。見ていて意外だったのが、彼の教えを受けていた数々の名プレーヤーたち(それはもうすごいメンバー!!)がまず口にしたのは、モウリーニョの戦術ではなく、いかに彼が自分の気持ちを高めてくれたか、いかに気持ちよくプレーさせてもらえたか、というものでした。彼は適時に、チームを奮い立たせるために叱咤激励し、時に慰め、勇気づけてくれるのだそうです。それが、世界最高峰の選手たちをして、彼を崇拝せしめる結果となっているのです。

 翻って、前大臣はどうかというと、荒っぽく言えば、「あなたたちは間違っている。ここもおかしい、ほら、ここもおかしい。早く「普通」になりなさい。」と組織員に口をすっぱくして言っていたのです(大げさではないし、心象としてはもっと激しい。)。もちろん、彼の言葉を客観的に捉えれば、共感できる部分はありますが、少なくとも彼の言葉でモチベーションが向上した職員はいなかったと思います。職員のモチベーションを高めることができれば、あるいは彼の考える「改革」を成し遂げるだけのパワーが生まれたのかもしれません。


 結局、報道ベースでもいろいろ言われてますが、何がまずかったかといえば、こんな一般的な、どの会社でもありそうなリーダーシップの欠如だったのではないかと考えています。
 彼の言葉に学ぶべきものは多くあったと思いますし、役所は日々改革を進めなければならないのは事実です。感情的にならずに受け止めるべきは受け止める、という姿勢が大事だと思います。しかし、ここで「まずかった」と言わなければならないような1年間になってしまったのは、残念と言わざるを得ません。そして、彼の残していった年金運用3号問題の結末やいかに・・・
政治 | Comments(0) | Trackback(0)
2010/03/07

調整

 ブログを始めた早々しばらくサボってしまいました。前回の投稿日が9月なので、約半年サボっていたことに。今はあまり家にいないので、家にネットは引いてなくて、e-mobileがあるだけなのですが、それが一時壊れていたのがきっかけで、また、予算編成で大変な日々が続いていたこともあり、そのままズルズルと・・・。
 何を言っても言い訳になるのですが、ぼちぼち再開して、継続していきたいと思います。

 この時点でまだ見ていてくれる人がいれば、いくら感謝しても足りません。


 前回の投稿日から半年、ということは政権交代から約半年。事業仕分けや22年度予算案など、話題には事欠きませんでしたが、最近は政治資金の問題が最大のトピックでしょうか。個人的には、それは少し残念な気がします。

 個々の政策の是非はさておき、民主党が掲げた「政治主導」は、かなりの程度実行されており、重要な意思決定が政治のみでなされた案件が多数あります。しかし、「政治主導」が実現するかどうかが判断されるのは実はこれからで、その行方を見極めることが、真の意味で政権交代を評価することにつながるでしょう。

 霞ヶ関、すなわち官僚が果たしてきた最大の役割の一つとして、調整があります。ほぼ全ての案件には、対立する利害関係者がおり、一つの結論をオーソライズするには、それらの利害関係者の間に立って調整をする必要があります。それを行ってきたのが霞ヶ関であり、技術的にも官僚の最大の能力の一つと言う人もいます。関係者の利害が完全に対立する場合など、その調整はた易いものではなく、膨大な時間と労力が費やされます。その理由の一つとして、調整すべき対象の一つとして、制度の持続可能性や財政制約といったものまでもが加わってくるからです。団体や人といった利害関係者のみであれば、八方美人な対応も可能でしょうが、ひとたび制度の持続可能性などを考慮しようとすると、シビアな結論を導き出す必要があり、憎まれ役になるケースも少なくありません。

 今般の「政治主導」においては、この調整のプロセスを省略したものがいくつかあると思います。すなわち、個別の案件ごとに見れば八方美人な方向性を示しており、全体としてみれば、全てを実現するのは困難、という状態にあるものです。棚上げにしてきた調整のプロセスは、今後避けられない仕事として政権にのしかかっくるし、「政治主導」を貫くならば、その調整は政治家がこなすしかありません。米軍基地問題、障害者問題、広い目で見れば増税問題も(時間軸をまたいだ調整という意味で)それに該当するでしょう。これらはまだ手付かずのまま、あるいは以前よりも膨張した形で、ふたを開けられるのを待っています。

 これらの問題を解決するには、どこかで政権は非難される立場にならざるを得ないでしょう。誰もが喜ぶ結論があるというなら別ですが、そうは簡単にいかないはずです。そのとき、政治とカネの問題で早くもハネムーンなどどこ吹く風のマスコミは、その非難される側面を誇張して、あるいはその側面のみを取り上げて、鬼の首を取ったかのように騒ぎ立てるでしょう。そのとき、政権交代の真価が本当に問われるのだと思います。

 「政治主導」とは、決して強欲な官僚から正義の味方が権限を取り上げて行使する、という類のものではなく、利害関係者がそれぞれの立場から権利を主張して身動きが取れなくなっている案件に新しい方向性を示し、全体としての合理性を高める、というものだと僕は思っています。これら棚上げになっている案件にどういう方向性を示すのか。政権の真価はこれから問われてきます。

 
政治 | Comments(0) | Trackback(0)
2009/09/27

霞ヶ関維新

霞ヶ関構造改革・プロジェクトK霞ヶ関構造改革・プロジェクトK
(2005/11)
新しい霞ヶ関を創る若手の会

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霞ヶ関維新――官僚が変わる・日本が変わる霞ヶ関維新――官僚が変わる・日本が変わる
(2009/09/01)
新しい霞ヶ関を創る若手の会

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 本屋の店頭で『霞ヶ関維新』が目に入ったので、「新しい霞ヶ関を創る若手の会」の前著である『霞ヶ関構造改革』と一緒に購入。

 主張の内容は概ね以下のとおり。
 ○ 日本の現状
  ・経済指標よりもむしろ社会指標を重視して考察
  ・各種指標は総じて低水準であり、なんとかしなければならない状態。
 ○ 目指すべき国家像
  ・官民が効率的に役割を果たす協創国家
  ・市場を正しく機能させることで結果を出す小強国家
  ・量の豊かさではなく質の豊かさを実現する真富国家
 ○具体策
  ・省益確保に走らず長期的な戦略を持って公益を実現する総合戦略本部の創設
  ・省益確保、専門性の欠如という現状の問題を解決するための人事制度の刷新
  ・ミクロな業務の非効率が多く見られる霞ヶ関の業務の効率化

 読んでみての所感。
1.具体的・現実的
 霞ヶ関を去った元役人がその実態を暴く、という類の本はよくありますが、ここではかなり具体的な問題が指摘されるとともに、かなり現実的な対応策が示されています。一見どうでもいいような詳細な実現策も、ただ主張するだけでなく、政策として実現することを目的に据えているためのものであり、その点においては評価されるべきでしょう。多少議論が粗いように感じるところはありますが。

 総合戦略本部についてはすでに民主党政権において創設が確実な国家戦略本部とほぼ同様の内容になっており、彼らの提言が民主党の政策に影響を及ぼしたかどうか不明ですが、少なくとも彼らの主張の実現可能性はある程度証明されていると思います。

 また、ミクロな業務の非効率を具体的に記述していることは、霞ヶ関の実情を世の中に伝える意味でも重要だと思います。とかく現実離れしたイメージをもたれがちな霞ヶ関ですが、こういった小さなところから外部に知ってもらうことが、「役人」を擬人化して感情的に非難する(ことで終わる)ことを排除し、世の中が社会問題の本質に目を向けることにつながると思います。

2.センセーショナルな内容ではない
 ここで言われている主張は、まぁそれぞれどこかで見たことがあるなぁ、といった内容ではあります。したがってこの本に書かれている提言を実現したら日本が一変する、という内容ではないでしょう。さらに言えば、霞ヶ関で働いている職員であれば、「それはわかってるんだけど・・・」という声も聞こえてきそうです。
 しかし、他の主張と重複する、あるいは既に主張されてきたものであるとすれば、それだけこれらの問題が解決すべきものである、とも言えます。皆がわかりきっていることでも、出版という形で世に知らしめたこと、とにかく手をつけたことこそ、この本の功績なのかもしれません。

 霞ヶ関の仕事はやはり肉体的・精神的に厳しく、目の前の業務に忙殺されがちですが、大小の問題を見つけて、その解決を実現することを忘れてしまっては、役人としての存在意義がなくなってしまいます。そんなことを改めて考えさせられました。
行政 | Comments(1) | Trackback(0)
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